4 月 30 2008

観光タクシードライバーの小噺  焼きもの6

◆伏見人形
伏見人形は17世紀後半、伏見で始めて作られた型作りの土人形である。伏見稲荷の参道や伏見街道で、祈願成就を願って売られ、土産物として日本全国に運ばれ、各地に生産技法が伝わった。各地には土の雛人形があるが、伏見で雛人形は作られていない。京都では裂地で作られた衣装雛が流行していたため。明治後半以後は、土人形の生産は廃れ始め、現在、伏見で人形を作るのは、丹嘉ただ1軒。
【丹嘉】本町稲荷上ル久野病院手前西側/℡075- 561-1627
◆かわらけは万能の器!
かわらけは素焼きされただけの土器のこと。「かわらけ」を漢字で書くと「土器」と書く。古代の酒器は食器と同じくカシワの葉を杯としていたが、土器が作られるようになると素焼きの「かわらけ」になった。現在でも神事に用いられるのは、その名残である。江戸時代後半まで、今日の使い捨て紙コップと同じように用いられていて、飲食用、灯明皿などに使われた万能の器。
◆土鍋は(なべ)!
土鍋は生地の目が荒いは素焼きの鍋で、身の部分のみ素焼きで、ふたは釉薬をかけたものが多い。釉薬のかけたふたには、貫入(ヒビ)が入っている。目が荒いために、過熱したときに膨張の余裕があることにより、割れにくいといわれている。ひび割れすることがあるが、粥などを炊くと目が詰まる。古代の土器の性質を今に引き継いでいる。「なべ」の語源は、「魚、菜」を調理する「瓶(かめの類)」、漢字で「」と書く。金属性の鍋は「かななべ」。「かななべ」の方が一般の普及してしまい、土器製を特に「土鍋」と呼ぶようになった。

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4 月 29 2008

観光タクシードライバーの小噺  焼きもの5

◆焼きものにいい土!
名工、尾形乾山は「およそ、地上の土で焼ものにならざるもの無し」といったが、純粋に一種類の土で使えるものなど、そう簡単には探せない。その昔、陶工たちは山野をくまなく歩き、土の匂いをかいだり、なめてみたりしながら、いい粘土を探し求めて来た。土を採掘したら乾燥させ、叩いて粉にして水を含ませ、足で繰り返し練り、指で不純物を取り除き3年以上寝かすともいう。
◆床の間に壷を飾る!
茶の湯の流行とともに、茶壷の需要が広がる。茶壷は葉茶を入れて運搬、貯蔵するための壷であるが、安土桃山時代、信長・秀吉は公式行事の場において、茶壷を床飾りの最高の道具として使用した。茶壷は茶席の道具から格式の高い道具に変質することになり、床の間に飾られる。
◆ご飯は茶碗で食べる! 『お茶について』にあるように、茶碗は本来、煎茶・抹茶用であり、ご飯は木製や土製の椀を使用していた。ご飯に陶磁器製の茶碗が使われだしたのは江戸末期で、陶磁器が一般庶民にまで広がったことによる。ご飯を食べるのに「茶碗」とは、茶の湯の文化の影響。お椀や飯椀というときの「椀」は木製、茶碗というときの「碗」は陶磁器製のこと。ちなみに、ご飯用は飯茶碗、お茶用は茶飲茶碗と区別する。緑茶は「湯呑」で飲む。「湯呑」という言葉が、現在でもいきている。不思議な言葉です。

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4 月 28 2008

観光タクシードライバーの小噺  焼きもの4

◆茶の湯が京焼を作った!
茶の湯の流行を背景に京焼は誕生した。茶の湯の多様な嗜好は、陶工にさまざまなやきものを作らせた。そこには、茶の湯者の嗜好に応じる技と、豊かな感性が必要であり、京焼はすぐれた陶工と陶芸作品を生み出した。各地のやきものは、土を基礎にして特色をもっているが、京都には土がない。土に代わるものが、京都の歴史と文化。京焼は各地の陶芸の技が集まって成立している。
◆京焼・清水焼の違い?
京都で焼かれた陶磁器を京焼というが、一般的には、桃山時代から京都で焼き始められた近世を代表する都会的な陶磁器をさす。粟田口焼、御室焼、清水焼、黒谷焼などを総称して京焼と呼ぶ。京焼が独特の風格をもつようになるのは、江戸前期の野々村仁清や尾形乾山が登場してから。江戸時代中期、1771年、清水六兵衛が五条坂に窯を築いてから清水焼が発展、京焼の最大の生産地となる。京焼のもう一方の系統である粟田焼は高級陶器を中心に生産していたが、大正期以降衰え、清水焼が京焼を代表する。現在の京焼の原料は陶器では信楽の土、磁器では出石・天草の陶石を用いるといわれている。
◆朝鮮出兵と焼きもの
秀吉の朝鮮出兵は、焼きもの戦争と呼ばれる。兵を引く際に、九州の大名たちはきそって朝鮮人陶工を連れ帰った。当時、茶の湯は高い教養であり、文化であった。いい茶碗を藩内で焼かせたいという藩主の願いが、強制的に朝鮮から陶工を移住させることになった。有田焼・磁器の祖である、鍋島藩の李参平は特に有名。

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4 月 27 2008

観光タクシードライバーの小噺  焼きもの3

◆釉薬の発明はガラスに!
陶磁器の表面を覆うガラス質部分を釉薬、釉、ウワグスリという。釉は陶磁器の表面を美しく滑らかに強くし、吸水性を減らす。釉薬の発明は西アジアと中国。西アジアは最初にソーダガラスが誕生し、それを陶磁器に利用することで釉薬が発展した。中国では土器を焼いている灰がそれ自身にかかり、自然釉を作ることに着想し、釉薬を人為的に考え出した。施釉陶器はすべてこの二地域からの技術によるといわれている。この釉薬の発明は、後、単独なガラスへと発展していく。
◆「唐津もの」「瀬戸もの」
江戸期の前は関ヶ原以東ではやきものを「せともの」、西では「からつもの」といっていた。唐津焼は、秀吉の朝鮮出兵で朝鮮半島から連れて来られた陶工が始めロクロや登窯が導入されて効率的に量産された。丈夫な陶器の「からつもの」が人気を集めた。一方、鎌倉、室町時代に栄えていた瀬戸は、有田の磁器に押され、苦境に立たされていたが、有田で密かに磁器の製法を学んだ加藤民吉により、文化4(1807)年に瀬戸で本格的に磁器の生産を始め、廉価で丈夫な「せともの」が誕生する。「西の唐津、東の瀬戸」がやきものの代名詞となる。後、唐津が廃れ、瀬戸が優位にたち、関西でも「せともの」というようになった。
◆楽焼は瓦工から
楽焼は聚楽焼の略称で桃山時代に京都の陶工、長次郎によって作られ始めた、最も古い京焼の一つである。ただし、京焼でないという人もある。長次郎は聚楽第で窯を築き、茶器や瓦を焼いていたが、そのできばえが秀吉に認められ、「樂」の金印を賜ったことにより、樂家の性となり、茶碗の裏に「樂」なる印を押し始めた。楽焼は、茶の湯のために造形するという目的をもつため、日常生活の容器は作られていない。樂家は当代で15代を数える。

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4 月 26 2008

観光タクシードライバーの小噺  焼きもの2

◆磁器・有田焼の誕生!
磁器の生みの親と言えば、朝鮮出兵のおり鍋島藩に連れて来られた朝鮮の陶工、李参平。初め唐津焼を作っていた参平は、1616年に有田で陶石を発見、白磁染め付けの焼成に初めて成功し、有田焼が誕生し、有田一帯に磁器の生産が広がる。また、有田の磁器が海外に輸出されヨーロッパ陶磁器の誕生に大きな影響を与えたといわれている。有田焼は伊万里港から全国に、また海外に輸出されたために、伊万里焼とも呼ばれる。
◆陶器と磁器どこが違う?
まず原料が違う。陶器は陶土(粘土)を使う「土もの」。磁器は陶石(長石、珪石、カオリン等が主成分)を砕いて粉にした磁土を使う「石もの」。貫入(釉に入るヒビ)の有無も大きな違いの一つ。釉薬は長石を含む石質で、素地の土とは収縮率が異なるため、焼き上げた後冷めるときに、釉薬にヒビが入る。それに対して磁器は、素地も釉薬も石質のため、貫入が入らない。つややかで美しく、弾くと澄んだ美しい音を奏でるのが特徴。
◆登窯で大量生産、そして公害!
穴窯は須恵器の頃から使われ、江戸時代初期まで活躍した原始的な窯。斜面を掘って、天井に竹などでアーチを組み、土を塗って作られた窯で、半分地下に埋まっている。それ以前は露天で焼成。登窯は穴窯を改良したもので、室町末期に唐津に導入され、江戸中期に全国に広がった。上へ上へと登りたがる炎の特性を利用し、階段上に焼成室を連結して築いた窯で、熱効率が良く大量生産が行われた。五条坂では昭和48年、大気汚染防止法の施行で登窯の火は消えた。現在は扱いやすく、小型化された失敗の少ない単室窯が主流。登窯は河井寛次郎記念館で見学できる。

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4 月 25 2008

観光タクシードライバーの小噺  焼きもの1

◆日本の焼きもの
我々の祖先は世界に先駆けて、今から12,000年前に、貝や縄目などで文様を付けた縄文式土器を発明。後、弥生式土器となる。窯はまだなく、野焼きで作られた土器は、焼きが甘く水漏れするが、煮炊きには使われた。弥生式土器は古墳時代になると土師器となり、その後もながく製作が続けられる。5世紀頃には、大陸から新しい技術がはいり、本格的な窯で焼かれた、灰色の堅く焼き締まった水漏れしない須恵器が現れる。鎌倉時代には、瀬戸において須恵器を基とした、釉薬を施した陶器に発展する。その後、江戸時代初め有田で磁器が生み出された。
◆日本最初の陶器一般に素焼きの上にウワグスリをかけたものを陶器という。日本最初のうわぐすりのかかった陶器の出現は奈良時代で、「奈良三彩」とよぶ緑や、褐色のうわぐすりのかかったもので、正倉院に伝わる。奈良三彩は唐三彩の流れをくむものといわれ、奈良~平安期にかけてかなり作られたが、平安中期なぜか作られなくなる。本格的な陶器造りがはじまったのは鎌倉時代から瀬戸で作られた。
◆中世の焼きもの
信楽・丹波・備前・越前・常滑・瀬戸を六古窯という。鎌倉時代の製陶業の中心地である。このうち瀬戸以外は、主として農民のための水がめ、つぼ、はちなどが作られているが、古来の土器の系譜をひく堅く焼き締めただけの雑器。瀬戸地方では釉薬のかかった陶器が盛んに作られたが、高級品として都の上流階級に、その使用は限られていた。(この期の瀬戸焼を古瀬戸という)

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4 月 24 2008

観光タクシードライバーの小噺 蕎麦(そば)5

◆にしんそば
にしんそばは南座の隣の《松葉》が発案。《松葉》の創業は江戸の末期で南座の客を相手に芝居茶屋を開業したのがはじまり。鮮魚に乏しい京都で魚類の干物の料理として工夫されたこのそばは、京名物の代表格といえる。ニシンを器の底に敷くのは、ニシンの旨みがつゆにじんわり溶けださせるため。
◆そばほうる
江戸時代中頃、そば屋ではじまった河道屋の安兵衛が考案した南蛮菓子。ほうるは、ポルトガル語のボーロ(bolo)。南蛮菓子のボーロは円形をしているが、そばほうるは梅の花とつぼみの型に抜かれている。梅の花型は風雅を好む日本人の着想という。有名店・河道屋総本家(麩屋町姉小路東入ル075-221-4907)
◆常食でないソバ
食料としてのソバは、全国いたるところに普及愛好されているが、米・小麦に比べると極端に収穫量が悪く限界があり、品種改良も難しく進んでいない。なおかつ、実にしたり粉にしたりすると量が減り、良質のソバ粉はさらに量が減る。ソバは年間をとおして人間の口に入りにくく、常食にはならなかった。
◆ソバの産地
ソバの83%は輸入にたよっている。国内の生産量の内訳は、北海道37%、鹿児島14.5%、その他に福島、茨城、栃木、長野、宮崎が主な産地。関西地方で食べるそばは、すべてが外国からの輸入のソバだと思って間違いなさそう。

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4 月 23 2008

観光タクシードライバーの小噺 蕎麦(そば)4

◆年越しそば
そばは伸びる。延命長寿や身代が伸びる。また、そばは切れやすいため、旧年の苦労、災厄、一年中の借金を打ち切る。庶民の切実な願いを、そばに託したと思われる。しかし、生蕎麦は伸びないがよく切れる。伸びるそばはつなぎの小麦粉が多いことによる。
◆引越しそば
江戸での引越しそばは、手軽にすむところからはじまった。また、「そば近く」と言う言葉をもじったもので、近所や大家に配った。しかし、上方にはこの風習はない。
◆そばの栄養とそば湯
ソバ粉の主成分はデンプンであるが、タンパク質、ビタミン等も多く栄養価が高い。特に、高血圧の人によい。酒を飲んだあとにそばを食べるのは、ソバに含まれるビタミンB2がアルコール分を中和するからである。また、そばを食べたあと、そば湯を飲む風習は信州から起こった。ソバのタンパク質は水に溶けやすく、ゆでたそば湯の中には溶けた栄養分が含まれていることを、昔の人達は知っていた。

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4 月 22 2008

観光タクシードライバーの小噺 蕎麦(そば)3

◆もり・かけそば・しっぽく
そば切りは初め汁をつけて食べる一種類だけだったが、元禄頃に男などは面倒臭がって汁をかけて食べる風があった。これを「ぶっかけそば」として売り出した店があり、その後、寒い時期にそばを温め熱い汁をかけて出すようになった。そのぶっかけそばが「かけそば」になり「かけ」と省略した。ぶっかけがはやるにつれて、従来の汁をつけて食べるそばを「もり」と呼んで区別した。ぶっかけそばにいろいろの具をのせたのが加薬そば、また、卓袱料理からヒントを得た加薬そばを「しっぽく」といった。卓袱料理とは、長崎地方から流行して日本化した中国料理で、お寺での普茶料理のことをいう。
◆鴨なんばん(鴨なんば)と九条ネギ
「なんばん」は「南蛮」の意で、日本に来たポルトガル人やスペイン人が、未知の国での病を恐れ、殺菌作用のあるネギを油で炒めて盛んに食べたことから生まれた言葉。ネギを入れることを南蛮と言い、鴨を加えて「鴨なんばん」と呼んだ。昔から異風なものを南蛮といったようだ。ちなみに、大阪の難波(ナンバ)は、ネギの栽培地として有名であったと言いい、京都の九条ネギの原産ときく。
◆そば椀について
そば椀は木地椀に始まり、磁器の平皿を経て、幕末ごろ蒸籠(せいろ)にうつったようである。丸蒸籠が普及したのは、明治の初めで、もり蒸籠が衛生上、はめ込みから置き簀にかわったのは戦後のこと。わんこそば、わりごそばは、食器である椀コ(破子(わりご))から出た名称。ざるそばも、ただ竹ザルにそばを盛ったから名付けられた。破子→食物の入れる器で、ヒノキの薄い板を曲げて丸く作ったオリに、かぶせ蓋をしたもので、ふたも身も同じ深さで同形から「わりこ」と呼ばれた。

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4 月 21 2008

観光タクシードライバーの小噺 蕎麦(そば)2

◆そば切り
ソバ粉はだいたい水を加えてこねるだけでは線状になりにくく、さらに湯に入れてゆでると切れ切れになってしまうことが多い。そのために数々の打ち方が工夫されてきた。今のようなめん状の「そば」、いわゆる「そば切り」ができたのは江戸時代初期のことで、その発生期は、つなぎを混ぜないソバ粉一本で打つ「生(き)そば」であったが、東大寺に来た朝鮮の僧・元珍が、つなぎに小麦粉を使うことを伝えてから、そば切りが一般化してきた。
◆二八そば
「そば切り」の打ち方として、ソバ粉8に対して小麦粉2の割合で混ぜた「割りそば」がもっとも普通におこなわれる。1664年、そばを作って売っていた菓子屋がめん類食の専門店として現れ、「二八そば」と称して売り出した。二八とは、配合割合と値段の16文とをかけたものである。しかし、現在の配合割合は、二八が望ましいが、一部の店を除けば、ほとんど同割なのが実状である。
◆のれんに生蕎麦!
ソバ粉一本で作る正統なそば切りが「生蕎麦(きそば)」であり、高級店では「生蕎麦」を看板にし、時代が下がるにしたがって品質の低下した二八そばとの格差を強調した。しかし、幕末になると二八そば屋までが「生蕎麦」を名乗り、両者の区別はできなくなった。

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