6 月 30 2008

観光タクシードライバーの小噺 納豆について

大徳寺納豆

【納豆について】

  • 京都が誇る納豆といえば、禅宗系の寺院で昔から作られてきた寺納豆のことで、糸を引く水戸納豆ではありません。。塩辛納豆や唐(から)納豆ともいわれ、こうじ菌で発酵させるのが特徴です。粘り気がなく、みそやコンブのつくだ煮のような独特の風味がします。代表的なのが「大徳寺納豆」「一休寺納豆」「天竜寺納豆」などです。
  • 寺納豆は、もともと中国から伝わり、保存がきくため、お茶受けや酒の肴として重宝され、また、和菓子の材料としても使われてきました。金閣寺の茶店でいただく抹茶のお菓子にも、この寺納豆が入っています。菓子の餡の中にショパイ納豆が二粒、実に絶妙です。一度試してみてください。
  • 大徳寺納豆の製法を伝授し、普及に貢献したのが一休和尚といわれています。最近は、寺で作られることが少なくなってきましが、一休和尚が晩年を過ごした一休寺では、五百五十年以上にわたって代々の住職が納豆を作り続けています。納豆作りは毎年七月、一晩水に浸しておいた大豆を蒸して、はったい粉とこうじ菌をまぶし、納豆蔵で二日間発酵させ、その後、発酵した豆をこうじかきで丁寧にほぐし、塩水を張った桶に入れ、仕込みが完了します。桶に入れたまま一年ほど天日で乾かすと、黒っぽい納豆が出来上がります。さらにもう一年、蔵で納豆を熟成させるといいます。
  • 寺納豆は京都だけではなく、全国各地に存在し、静岡の大福寺ゆかりの「浜納豆」は、熟成させた納豆にショウガやサンショなどで風味付けされ、徳川家康が好んだと、今でも名物となっているそうです。
  • 唐納豆と糸引き納豆は、系譜が違うようで、水戸の納豆は、糸引き納豆。こちらの納豆は匂いが強いため、あまり好まれなかったようで、関西では嫌いな人が多いように思います。

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6 月 27 2008

観光タクシードライバーの小噺 伏見人形

【伏見人形】

  • 伏見人形を始めたのは、深草に住み大和朝廷の器を作っていた土師部(はじべ)の子孫あるいは、瓦職人など諸説あり、よくわかっていない。ただ、伏見稲荷大社は元来「稲がなる」、つまり五穀豊穣の神で、稲荷山の土を田畑にまけば穀物がよく実るという信仰が古くからある。その土で「つぼつぼ」と呼ばれるおもちゃの器、鈴、ひいては人形を作り参道で売るようになったという。
  • 文献では、1582(天正10)に稲荷社に参り、つぼつぼを買ったという「言経卿記(ときつねきょうき)」の記述が古く、17世紀以降「京都名所案内」などで狐、でんぼ(菓子などを入れるこども用の器)などの土産物が紹介されている。
  • 伏見人形は型を使うことで量産を可能にしたといい、前後二つの型で作るという特徴がある。各地の土人形の初期に、この型が使われており、伏見人形は土人形の源流といわれている。
  • 伏見人形の最盛期は江戸時代の中期から後期で、庶民の生活に安定と余裕が生まれ、全国から稲荷社に参拝者が訪れ人形を購入したようである。往時は5060軒の窯元があったようだが、明治以降は、ブリキなどの玩具に押されて衰退し、現在は、1750年創業の丹嘉と約30年前から窯元になった稲山庵、休業中の一軒のわずか三軒となった。

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6 月 25 2008

観光タクシードライバーの小噺 鍾馗さん

【鍾馗さん】

  • 家にふりかかる災難を屋根の上からにらみをきかし追い払う瓦人形の魔除けが鍾馗さんです。京都の町並みを歩いていると、玄関の上の庇に閻魔大王のような出で立ちの小振りな瓦人形をよく見かけます。探してみると以外とこれが多く、多種多様です。しかしこれは閻魔大王ではありません。京都では「お鍾馗(しょうき)さん」と呼んでいます。
  • そういえば京都では人以外のものも「さん」づけで呼ぶことが多いです。「建仁寺」を「けんねんじさん」。「八坂神社」を「祇園さん」といったふうです。
  • この「お鍾馗さん」、ルーツは中国にあります。「鍾馗」というのは、唐の玄宗皇帝の夢に登場した伝説の人物だそうです。夢の中の鍾馗は、楊貴妃の宝を盗もうとする鬼を追い払ったといわれています。そして、病に伏していた皇帝が、この夢から覚めると全快していたといわれています。
  • 京都では、この故事にならい、家にふりかかる邪気を打ち払う魔除けとされています。不動明王なみの恐い形相。これが邪気を打ち払う秘訣なのかもしれません。
  • 町並みの構造にも関係があると思います。京都の町並の出入り口は「平入り」という構造です。屋根が落ち込むところに入口があるわけです。雪国では考えられない構造だそうです。確かに、雪が屋根から滑り落ちたら、入口から家に入ることができません。雪国では、「妻入り」という出入り口だそうです。
  • 京都の町屋は、ほとんどすべて隣家と接しています。ようするに、妻側に魔除けの鬼瓦を付けることができません。何か邪気を払う鬼瓦に代わるものとして、「鍾馗さん」が登場したのではないかと、ひそかに思っています。

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6 月 24 2008

観光タクシードライバーの小噺 かつお節について

【かつお節について】

  • カツオダシは平安時代から基本調味料として愛用されていた。当時の貴族の食事に現われる代表的な調味料は、塩、醤(ひしお)、酢、未醤(みしょう)、煎汁(いろり)(カツオの煮汁)など。この時代は、まだかつお節とは呼ばず、堅魚(かたうお)などといった。のちに鰹という字が当てられ、室町時代あたりから「かつお節」という言葉が登場する。
  • 本居宣長(1730-1801)は『古事記伝』の中で、「昔、カツオといっていたのは、生ではなく、乾燥したかつお節」だといっている。現在のような、カビを付けたかつお節は、元禄時代、土佐で考案されたという説があり、それが各地に広がったといわれている。産地は西日本を中心に、土佐、伊豆、紀州、薩摩、焼津などが有名。
  • 江戸時代の料理書には、カツオダシを使った料理が多くあるが、なかなか高級品だったらしく、手の届かない人々は、安い煮干しなどで代用したという。ちなみに、生で食べるようになり、初ガツオに価値を見いだすのも江戸時代で、カツオのたたきは、ショウガでなくカラシ酢で食べていた。カツオやかつお節は、勝男や武士にも通じる縁起物とされ、当時の代表的な贈答品。また、携帯しやすく、保存食として優秀な兵糧でもあったという。

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6 月 22 2008

観光タクシードライバーの小噺 京扇子について

宮脇賣扇庵店頭

【京扇子(伝統工芸品)について】

  • 扇子は京都生まれで、その歴史は古く、平安時代にまでさかのぼります。扇子の着想は、一説には木簡(今で言うメモ帳のような物)を束ねて一端に穴を開け、紐などで繋いだ物が起源であるとされています。木簡とは、細長い木の板で、長さ30㎝くらいのもの。墨で文字を書くために使われました。紙の普及により木簡は廃れましたが、荷札には長く用いられたといいます。ちなみに、「おうぎ」の語源は「あふぐ」(扇ぐ)の派生形の「あふぎ」からといわれています。
  • 日本最古の扇「桧扇(ひおうぎ)」は、東寺の千手観音像の腕の中から発見されたものといわれています。平安時代中期には、桧扇に美しい絵が描かれ、また、竹や木を骨として片面に紙を貼った紙扇(かみせん)も作られるようになります。
  • 宮中の女性がつねに手にするようになり、一種のアクセサリーとして使用されるようになります。しかし、まだ朝廷・貴族の服飾品や遊芸用、また、僧侶・神職たちの儀式用としてのもので、一般庶民の使用は禁じられていたといいます。
  • 鎌倉時代になると、禅僧らによって、日本の扇子が中国へ渡ります。また、初めて「垂()げの糸」と呼ばれる飾りが登場します。日本の扇子は中国で変化をとげ、唐扇(とうせん)が日本へ逆輸入されます。唐扇とは裏表に紙を貼り、扇の骨が見えないように改良されたものをいいます。
  • 一般庶民へ扇子の使用が許可されたのは室町時代になってからのことです。江戸時代に入ると広く庶民の日常生活へ普及するようになりました。江戸後期には、海外市場へ進出するまでになり、日本の扇子が世界に広まったといいます。ヨーロッパでは、布を貼った「絹扇」へ発展し、高級品として貴婦人を華やかに飾ったといいます。
  • 京都で生まれた扇子は、現在、日本、中国、スペインで作られ、世界中で愛され続けています。
  • 資料・京都扇子団扇商工協同組合より

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6 月 21 2008

観光タクシードライバーの小噺 団扇について

団扇について
【京うちわについて(伝統工芸品)】

  • うちわは、中国の周の時代(紀元前三世紀)には、すでに存在していたと言われています。日本へ伝わったのは、六~七世紀頃で、高松塚古墳の女子群像に描かれています。涼をとるだけではなく、祭礼や貴人女性が顔を隠すために用いられたと言われています。
  • 魔除けの意味もあって、儀礼用、装飾用として発展したといわれており、魔除けの意味で「魔を打ち払う」から、「うちわ」といいます。
  • うちわが日本に伝来した頃には神事に、平安時代には中国同様、貴人が顔を隠すために使用されたといいます。また、戦国時代には、武将の軍配や家臣への褒美として、うちわの用途が移り変わったといいます。
  • 江戸時代には、京うちわの特徴である「挿し柄」技法を用いた「御所うちわ」が登場しました。時を経て、今日もなお創作され続ける京うちわは、地方には見られない繊細優美な姿を伝えています。
  • 写真は、「阿以波(あいば)」の団扇。柳馬場通り蛸薬師通り上ル西側/℡075-221-1460
  • 資料・京都扇子団扇商工組合より

【丸亀うちわ】

  • 香川県丸亀市は、各地の企業や店、寺社の注文に応じ、年間一億本を生産。全国に占めるシェアは九割。生産量は三大産地と称される千葉、京都に比べても圧倒的に多い。江戸初期に藩士の内職として始まり、藩の殖産興業策で定着した丸亀のうちわ作り。その後、全国から金毘羅宮に海の安全を祈る『こんぴら参り』の土産物として「丸金印」の赤いうちわが人気を獲得。明治以降、生産器具が改良され、産業化された。

 

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6 月 19 2008

観光タクシードライバーの小噺 公衆トイレについて

【公衆トイレについて】

  • 京都はトイレの先進都市。近世の早い時期には、街角に公衆トイレ代わりの小便おけが置かれ、1825には3503ヵ所もあったとされる資料もある。現在、市内の公衆便所は96ヵ所。昔の京の街角には、屎尿の臭気がさぞ漂ったことであろう。このように多数の小便おけが置かれた理由は、京周辺の農村が、肥効性の高い屎尿を奪いあったからである。享保期と天明期には、山城・河内の農民達は、京の屎尿を巡り、国を挙げて争っている。
  • ブランドとして全国的に高い評価を受ける京野菜と宇治茶。京都の人の舌が育てたといわれるが、その裏には京都人の“尻も大きな役割を果たしたことを忘れてはならない。年の瀬には、各家に汲み取り代金として現金やもち米等が渡され、このもち米で正月のおもちをついた。屎尿を巡る都市と農村の循環システムが出来上がっていた。
  • 小便おけは、明治になると、博覧会で入洛する外国人の目などを気にして、京都府は改善を命じ、大小便ができる両便所の建設も始まる。その後、コレラなどの伝染病予防のため、便所の改革が何度か試みられる。明治28年の平安遷都1,100年祭には、当時大勢を占めた私設便所の市有化と統合・新設が行われ、現在の公衆便所の原型が形作られる。明治28年は、いろいろな改革や建設が行われた、京都にとって歴史的な年といえる。
  • 資料・京都新聞より

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6 月 18 2008

観光タクシードライバーの小噺 砂糖について

【砂糖について】

  • 現在の日本食には、砂糖は欠かせない調味料だが、江戸時代の料理本をひもとくと、甘みの強い料理はほとんどない。当時、砂糖は希少品。もっぱら高級菓子などに用いられ、料理に使うことはない。調味料として大衆に普及したのは大量生産が可能になってからで、明治30年代以降台湾製糖会社が設立されたのがきっかけといわれている。もともと砂糖はインド原産。ヨーロッパでは「インドの塩」とまでいわれた貴重な物産品。日本には日宋貿易によって薬用として少しずつ出回るようになる。
  • 国産品が生産され始めたのは、17世紀になってからで、それまでは輸入の舶来糖で、中国や南方諸島から輸入していた。江戸幕府は砂糖の自給自足を目指し、さまざまな努力を試みる。なかでも八代将軍吉宗はサトウキビ栽培を積極的に推進。その結果、琉球、奄美、土佐、讃岐など各地で黒糖が採れるようになる。日本の砂糖といえば「和三盆」1751(宝暦元)年、長崎で学んだ知識をもとに、平賀源内が最初に作ることに成功したといわれている。
  • 砂糖は落雁などの和菓子の素材として珍重され、今でも伝統製法を受け継ぐ讃岐や阿波が有名な産地。和三盆という名は、中国製の唐三盆に対して和三盆という意味。日本で作られた砂糖ということ。なお三盆という意味は、盆の上で三度分蜜作業をするところからその名がついた。和三盆糖が普通に使われている砂糖と著しく違う理由の一つは、その原材料の違い。和三盆糖の原材料も、上白糖やグラニュー糖と同じくサトウキビ。サトウキビと言ってしまえば同じだが、和三盆糖に使うサトウキビは竹糖と呼ばれる品種で、成長した段階で、背丈は穂の部分を入れて凡そ2m弱、太さは大人の人差し指程度の太さしかないという。

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6 月 15 2008

西国三十三所観音巡礼

【西国三十三所観音巡礼】

 「西国三十三所」と呼ぶようになったのは、東国に坂東、秩父の観音霊場ができた鎌倉時代からで、それまで三十三所といえば、そのまま「西国」を意味した。観世音菩薩は、三十三の姿に変身し、慈悲の心ですべての人を救うとされ、三十三所もこの数にちなむと考えられている。起源には諸説あるが、最も有名なのは、奈良時代はじめに長谷寺を開いた徳道上人の話である。上人が死後、あの世でえんま大王に「生前の罪で地獄へ落ちる者が多くて困る。日本の観音三十三を一巡すれば必ず浄土に迎えるから、人々にそう教えよ」と命じられ、三十三所の宝印を授かって生き返ったという。宝印は、ゑんま大王が証文として自分の血で書いたもので、これが納経印(朱印)の起こりとされる。平安中期に巡礼を再興したといわれる花山天皇が、粉河寺で歌一首を札に書いて納めたのが納札の始まりといい「札所」の名はここから出た。昔は年月日、名前を書いた木札を霊場ごとに打ちつけて巡ったようである。

1.     【青岸渡寺】阪和道・海南湯浅道から国道42号を南、田辺市・潮岬方面へ、165kmで那智勝浦町に、那智駅手前で左折し、那智川沿いに9km。または、名神栗東ICから国道1号を東、水口・亀山方面へ、関Jctから伊勢自動車道に入り、勢和多気ICで降り国道42号を南下、約145kmで那智駅前。

2.     【紀三井寺(金剛宝寺)】阪和道和歌山ICから国道24号を和歌山市内へ、市内で国道42号に入り海南市方面へ5.5km、紀三井寺交差点を東へ。または、阪和道海南ICから国道42号を和歌山市内へ7km

3.     【粉河寺】阪和道和歌山ICから国道24号を東、橋本方面へ20km、粉河交差点を左折し1km

4.     【施福寺(槇尾寺)】阪和道岸和田和泉ICから国道170号に出て東へ、河内長野方面へ、槇尾山口バス停前を右折4km

5.     【葛井寺】西名阪道藤井寺ICから堺方面へ1km、小山交差点で左折し500mNTTのそばに。施福寺からは国道170号を北上、河内長野、富田林を過ぎ羽曳野市内野中の交差点を斜め左へ。

6.     【壷坂寺(南法華寺)】西名阪郡山ICから国道24号を南、橿原市方面へ、橿原市街で国道169号吉野方面へ、壷坂寺口を東へ2km

7.     【岡寺(龍蓋寺)】西名阪郡山ICから国道24号を南、橿原市方面へ、橿原市街で国道169号吉野方面へ、岡寺駅前を東へ3km

8.     【長谷寺】西名阪天理ICから国道169号で桜井市方面へ、桜井市街で国道165号を東、榛原・名張方面へ、長谷寺参道口から左斜め1km。ボタンの季節は通行止め注意。

●  【番外 法起院】長谷寺から参道を南に下って右にカーブしたあたり左側

9.     【南円堂(興福寺)】京奈和道山田川ICから国道163号を東、木津方面へ、国道24号に出て奈良方面へ、すぐの三差路を左斜めの奈良街道にとり奈良市街に、奈良県庁の南側の興福寺内。

10.  【三室戸寺】外環六地蔵から木幡、黄檗方面へ、バス停三室戸を東へ1km

11.  【上醍醐寺】国道24号から京滋バイパス宇治西ICに入り笠取ICで降り左折西笠取方面へ、京都国際CCの案内にしたがって約6km、山の尾根に出る手前左側に上醍醐寺の案内があり、車を降り徒歩で。または、外環六地蔵から木幡方面へ、町並を過ぎ次の信号を左折して炭山方面へ、炭山から京都国際CCの案内にしたがって約10km

12.  【岩間寺(正法寺)】名神瀬田西ICを降り右折、京滋バイパスを越えて右折し側道を西へ、石山寺三丁目西交差点を千町方面へ左斜めに、中千町で右折し3km。上醍醐寺からは、笠取ICを南郷方面へ、南郷洗堰を過ぎ赤川交差点を越えてすぐを左折、小川に沿って4km

13.  【石山寺】名神瀬田西ICを降り右折、京滋バイパスを越えて右折し側道を西へ、石山寺三丁目交差点を右折し、瀬田川沿いの国道422号を左折してすぐ。

14.  【三井寺(園城寺)】国道1号逢坂三差路で国道161号へ入り、浜大津交差点を      左へ、疎水の橋を渡り、すぐの観音寺交差点を左折し500m
●  【番外 元慶寺】渋谷街道北花山交差点を東へ、北側。

15.  【今熊野観音寺(観音寺)】東山泉涌寺道を東へ500m、泉涌寺手前を左へ。

16.  【清水寺】

17.  【六波羅蜜寺】五条大和大路を北へ東側で二筋目柿町通りを東、一筋目北へ

18.  【六角堂(頂法寺)】烏丸六角東入ル北側

19.  【革堂(行願寺)】寺町竹屋町東側

20.  【善峰寺】国道171中久世交差点を西へ、向日市役所を過ぎ大原野口を西へ、真っすぐな道ではないが善峰寺の案内にしたがい、大原野口から約7km

21.  【穴太寺】京都縦貫道亀岡ICを降り国道423号を左へ、池田方面へ1.7km、南条交差点を右へ1km

22.  【総持寺】名神茨木ICを降りて国道171を京都方面へ1.5kmの西河原交差点で右折し1kmJRをくぐって左折、清風会病院の手前を右回り。

23.  【勝尾寺】名神茨木ICを降りて国道171を神戸方面へ4km、小松原交差点を右折、突き当たりを左折して6km

24.  【中山寺】中国宝塚ICを降り池田方面へ500m、安倉中交差点を左折し北へ、約1.7kmなし、駅付近民営を利用。

●  【番外 花山院(菩提寺)】中国西宮北ICから国道176で三田市へ、三田駅前を過ぎ、三輪交差点を右へ4km、志手原を左へ2km、花山院バス停を右折

25.  【清水寺】中国ひょうご東条ICから西へ2km、東条町役場を過ぎ天神北交差点で右折、約2kmの黒谷交差点で左折、東条湖沿いに3km

26.  【一乗寺】中国加西ICから県道中北条線を南へ、玉野交差点を直進し、広域農道を法華口駅前へ、国道372を右折して姫路方面に2km進んで法華山口を左折して2km

27.  【円教寺】国道2号姫路バイパス姫路西ICから夢前川東岸を北へ、横関で川を渡って右折。ロープウエイに乗り換え山頂へ。

28.  【成相寺】国道9号から京都縦貫道を走り丹波町から国道27号を北へ53km、舞鶴市大手で左折して国道175号を6km、由良川を渡って右折して国道178号へ入り33km、国分交差点を左折し4km

29.  【松尾寺】舞鶴市大手で国道27号を東、小浜方面へ14km、松尾寺入口の標識を左折し2km

30.  【竹生島(宝厳寺)】西大津バイパスから湖西道路をへて、国道161号を北へ27km、今津港で船に乗り換え40分。ほかに大津港、長浜港、彦根港、飯浦港、長命寺港からの航路がある。

31.  【長命寺】名神栗東ICから国道8号近江八幡方面へ、近江八幡市に入ってすぐの東川交差点で左折、湖周道路へ出て右折、長命寺橋を渡り左折し、さらに本坊下へ自動車登山道で500m

32.  【観音正寺】国道8号安土町を過ぎ、五個荘南交差点を左、川並を経て有料登山道まで2km

33.  【谷汲山(華厳寺)】名神大垣ICから国道258号を北へ、大垣市街方面へ7.3km、国道21号を西へ左折し2km、河間交差点を北へとり国道417号へ、揖斐川を渡って国道303号との交差点を越えてすぐの突当りを左折して6km

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6 月 13 2008

観光タクシードライバーの小噺 書院造について

【書院造について】

 室町時代に確立した住宅様式で、主室に四種の座敷飾(ざしきかざり)『床・棚(違棚)・書院(付書院(つけしょいん))・帳台構(ちょうだいがまえ)』を構え、柱は角柱とし、床は畳を敷き詰め、建具は引違い建具が多い。ただし座敷飾は必ずしも四種そろうとは限らず、床だけの場合もある。床や天井の高さ、座敷飾など室内意匠によって座る人の身分差を示すことを意図としている。現代の住宅でいわゆる和風と呼ばれる意匠は、その基礎に書院造がある。つまり、書院造は現代まで脈々と流れている。

  • ◆座敷飾について 【床】壁に仏画などを懸け、花瓶などを載せる机をその前に置いたのが始まりで、移動させることができた。この机が固定されて床になる。床の間とは元来床のある部屋を指したようである。【違棚】棚も床と同様に最初は移動させることができたが、造り付けのものに変化した。高さの違う棚板を用いることが多いので違棚という。【付書院】机を造り付けにし、明るさを得るために室外に張り出したもので、建具が明障子なのも室外の明るさを取り入れるため。また、付書院では筆を執ることもある。【帳台構】寝室の入口が起源で、大切な物を収納するためにも使われたと思われる。このような寝室の入り口が装飾化され、室内を飾る装置のひとつとなる。
  • なぜ書院造というのか? 書院造の名称は四種の座敷飾のひとつ、付書院に因むものだが、なぜ、床や棚ではなく書院が様式を指す言葉として定着したかは、はっきりとはわからない。書院造でもっとも普及度の高く、代表的なのは床だが、床造という言葉はない。書院が意匠上もっとも印象的だったからなのかもしれない。
  • 数寄屋造(すきやづくり) 数寄屋造は書院造から生まれた。書院造は対面儀式にふさわしいが堅苦しい。日常の生活空間に適するよう、書院造を軽妙にアレンジしたのが数寄屋造である。柱は書院造では角柱を用いるが、数寄屋造では丸太の四面を切り落とし隅に丸みを残した面皮柱を好んで用いる。書院造では必ず打つ長押(なげし)も、数寄屋造では打たないか、代わりに丸太を半割にした材を打つ。襖や壁には、金碧障壁画(きんぺきしょうへきが)の代わりに水墨画を描くか、唐紙を貼る。細部意匠に凝ることも、数寄屋造の重要な要素である。引手金具や釘隠、欄間、障子、違棚などに自由な意匠を凝らす。数寄屋造は、日常の生活空間のほか、日常から離れた「遊び」のための空間として、上流階級の遊興の場として用いられた。
  • 寝殿造から書院造へ 寝殿造は平安貴族たちの邸宅の様式で、寝殿と呼ばれる建物を中心に建物を配し、池をもつ庭が南にある。平安末期に寝殿は南側すなわち表側が儀式などに使われる公的な空間、北側すなわち裏側が生活に使われる私的な空間、このふたつの空間に明確に分かれる。中世に入り、公家に代わって武士が台頭、その武家の住宅は、簡略化した寝殿造を受け継ぎ、来客を迎えたときの儀礼の空間を中心とする書院造が成立する。

 

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