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6 月 22 2008
宮脇賣扇庵店頭
【京扇子(伝統工芸品)について】
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扇子は京都生まれで、その歴史は古く、平安時代にまでさかのぼります。扇子の着想は、一説には木簡(今で言うメモ帳のような物)を束ねて一端に穴を開け、紐などで繋いだ物が起源であるとされています。木簡とは、細長い木の板で、長さ30㎝くらいのもの。墨で文字を書くために使われました。紙の普及により木簡は廃れましたが、荷札には長く用いられたといいます。ちなみに、「おうぎ」の語源は「あふぐ」(扇ぐ)の派生形の「あふぎ」からといわれています。
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日本最古の扇「桧扇(ひおうぎ)」は、東寺の千手観音像の腕の中から発見されたものといわれています。平安時代中期には、桧扇に美しい絵が描かれ、また、竹や木を骨として片面に紙を貼った紙扇(かみせん)も作られるようになります。
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宮中の女性がつねに手にするようになり、一種のアクセサリーとして使用されるようになります。しかし、まだ朝廷・貴族の服飾品や遊芸用、また、僧侶・神職たちの儀式用としてのもので、一般庶民の使用は禁じられていたといいます。
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鎌倉時代になると、禅僧らによって、日本の扇子が中国へ渡ります。また、初めて「垂(さ)げの糸」と呼ばれる飾りが登場します。日本の扇子は中国で変化をとげ、唐扇(とうせん)が日本へ逆輸入されます。唐扇とは裏表に紙を貼り、扇の骨が見えないように改良されたものをいいます。
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一般庶民へ扇子の使用が許可されたのは室町時代になってからのことです。江戸時代に入ると広く庶民の日常生活へ普及するようになりました。江戸後期には、海外市場へ進出するまでになり、日本の扇子が世界に広まったといいます。ヨーロッパでは、布を貼った「絹扇」へ発展し、高級品として貴婦人を華やかに飾ったといいます。
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京都で生まれた扇子は、現在、日本、中国、スペインで作られ、世界中で愛され続けています。
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資料・京都扇子団扇商工協同組合より
6 月 21 2008
団扇について
【京うちわについて(伝統工芸品)】
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うちわは、中国の周の時代(紀元前三世紀)には、すでに存在していたと言われています。日本へ伝わったのは、六~七世紀頃で、高松塚古墳の女子群像に描かれています。涼をとるだけではなく、祭礼や貴人女性が顔を隠すために用いられたと言われています。
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魔除けの意味もあって、儀礼用、装飾用として発展したといわれており、魔除けの意味で「魔を打ち払う」から、「うちわ」といいます。
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うちわが日本に伝来した頃には神事に、平安時代には中国同様、貴人が顔を隠すために使用されたといいます。また、戦国時代には、武将の軍配や家臣への褒美として、うちわの用途が移り変わったといいます。
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江戸時代には、京うちわの特徴である「挿し柄」技法を用いた「御所うちわ」が登場しました。時を経て、今日もなお創作され続ける京うちわは、地方には見られない繊細優美な姿を伝えています。
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写真は、「阿以波(あいば)」の団扇。柳馬場通り蛸薬師通り上ル西側/℡075-221-1460
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資料・京都扇子団扇商工組合より
【丸亀うちわ】
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香川県丸亀市は、各地の企業や店、寺社の注文に応じ、年間一億本を生産。全国に占めるシェアは九割。生産量は三大産地と称される千葉、京都に比べても圧倒的に多い。江戸初期に藩士の内職として始まり、藩の殖産興業策で定着した丸亀のうちわ作り。その後、全国から金毘羅宮に海の安全を祈る『こんぴら参り』の土産物として「丸金印」の赤いうちわが人気を獲得。明治以降、生産器具が改良され、産業化された。
6 月 19 2008
【公衆トイレについて】
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京都はトイレの先進都市。近世の早い時期には、街角に公衆トイレ代わりの小便おけが置かれ、1825年には3503ヵ所もあったとされる資料もある。現在、市内の公衆便所は96ヵ所。昔の京の街角には、屎尿の臭気がさぞ漂ったことであろう。このように多数の小便おけが置かれた理由は、京周辺の農村が、肥効性の高い屎尿を奪いあったからである。享保期と天明期には、山城・河内の農民達は、京の屎尿を巡り、国を挙げて争っている。
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ブランドとして全国的に高い評価を受ける京野菜と宇治茶。京都の人の舌が育てたといわれるが、その裏には京都人の“尻”も大きな役割を果たしたことを忘れてはならない。年の瀬には、各家に汲み取り代金として現金やもち米等が渡され、このもち米で正月のおもちをついた。屎尿を巡る都市と農村の循環システムが出来上がっていた。
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小便おけは、明治になると、博覧会で入洛する外国人の目などを気にして、京都府は改善を命じ、大小便ができる両便所の建設も始まる。その後、コレラなどの伝染病予防のため、便所の改革が何度か試みられる。明治28年の平安遷都1,100年祭には、当時大勢を占めた私設便所の市有化と統合・新設が行われ、現在の公衆便所の原型が形作られる。明治28年は、いろいろな改革や建設が行われた、京都にとって歴史的な年といえる。
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資料・京都新聞より
6 月 18 2008
【砂糖について】
- 現在の日本食には、砂糖は欠かせない調味料だが、江戸時代の料理本をひもとくと、甘みの強い料理はほとんどない。当時、砂糖は希少品。もっぱら高級菓子などに用いられ、料理に使うことはない。調味料として大衆に普及したのは大量生産が可能になってからで、明治30年代以降台湾製糖会社が設立されたのがきっかけといわれている。もともと砂糖はインド原産。ヨーロッパでは「インドの塩」とまでいわれた貴重な物産品。日本には日宋貿易によって薬用として少しずつ出回るようになる。
- 国産品が生産され始めたのは、17世紀になってからで、それまでは輸入の舶来糖で、中国や南方諸島から輸入していた。江戸幕府は砂糖の自給自足を目指し、さまざまな努力を試みる。なかでも八代将軍吉宗はサトウキビ栽培を積極的に推進。その結果、琉球、奄美、土佐、讃岐など各地で黒糖が採れるようになる。日本の砂糖といえば「和三盆」1751(宝暦元)年、長崎で学んだ知識をもとに、平賀源内が最初に作ることに成功したといわれている。
- 砂糖は落雁などの和菓子の素材として珍重され、今でも伝統製法を受け継ぐ讃岐や阿波が有名な産地。和三盆という名は、中国製の唐三盆に対して和三盆という意味。日本で作られた砂糖ということ。なお三盆という意味は、盆の上で三度分蜜作業をするところからその名がついた。和三盆糖が普通に使われている砂糖と著しく違う理由の一つは、その原材料の違い。和三盆糖の原材料も、上白糖やグラニュー糖と同じくサトウキビ。サトウキビと言ってしまえば同じだが、和三盆糖に使うサトウキビは竹糖と呼ばれる品種で、成長した段階で、背丈は穂の部分を入れて凡そ2m弱、太さは大人の人差し指程度の太さしかないという。


