12 月 10 2008

竜安寺紅葉情報2008年12月10日

【竜安寺紅葉情報2008年12月10日】
竜安寺の紅葉が最期をむかえています。この竜安寺は、市中の北西に位置しますが、紅葉が、遅いことでドライバーの間では有名です。今、お越しの観光のお客様は、あまり紅葉を期待しておられませんが、このお寺に来ると喜んでいただけます。少しでも、他のお寺に比べて、紅葉が残っているからです。
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【方丈裏庭知足のつくばい前】


【方丈南側参道の紅葉】


【方丈南側参道の紅葉】

 
【回遊庭園の紅葉】

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11 月 30 2008

竜安寺の絶景の紅葉2008年11月30日

【竜安寺の絶景の紅葉2008年11月30日】
竜安寺の紅葉が最高です。この参道の石段にかかる紅葉の素晴らしいこと、この上もありません。久しくこのような時期にお寺を訪れたことがありません。竜安寺は結構、京都の紅葉の名所としては穴場的存在でした。しかし、何年か前、読売テレビが朝の番組で、中継をしてからというもの、人の波ができてしまいました。静かな紅葉の名所を教えてください。
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【竜安寺山門】


【参道石段にかかる紅葉】


【知足のつくばい前の紅葉】


【鏡容池の紅葉】

 
【鏡容池まわりの参道】

 

 

 

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11 月 16 2008

金閣寺の紅葉2008年11月16日

【金閣寺の紅葉2008年11月16日】
 1397(応永4)、足利義満が西園寺家の山荘を譲り受けて造営した北山殿。金閣を中心とした庭園・建築は極楽浄土をこの世に現したといわれ、後小松天皇(一休の父)を招いたことは有名。義満は中国の明使とここで引見し、「日本国王」の称号を受け、貿易を盛んにして文化の発展に貢献したところ。有名な北山文化を生み出した。義満の死後、遺言によって禅寺に改め、義満の法号にちなんで鹿苑寺とした。はじめは多くの堂塔があったと伝えているが、応仁・永禄の兵火によって金閣を除くおもな建物を焼失した。
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【鐘楼前の紅葉】


【拝観入口前の紅葉】


【鏡湖池に映える金閣舎利殿】


【金閣舎利殿東側のカエデの木】 

 

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10 月 28 2008

鷹ヶ峰の紅葉2008年10月28日


【源光庵のモミジ】


【常照寺のモミジ】


【光悦寺のモミジ】

【鷹ヶ峰について】
 間もなく鷹ヶ峰に、秋の訪れを感じさせるモミジの紅葉が始まりかけています。鷹ヶ峰は鷹ヶ峰・鷲ヶ峰・天ヶ峰の三山を背後にして、はるか市中を展望する台地上に位する集落をいいます。旧市内より杉坂を経て周山に至る周山街道上の要衝にして、いわゆる京の七口の一つである長坂口にあたります。この地には、むかし毎年鷹がやってきて雛を生んだので、その山を鷹ヶ峰と称するようになったといわれています。その真偽はともかく、往古は遊猟地であったことは『類聚国史』に795(延暦14)年桓武天皇が遊猟に行幸され、また、淳和天皇も行幸されたといいます。中世は大徳寺領となり、北部の山中には大徳寺の末寺の隠居寺が多く建てられましたが、早く廃退いたしました。
 
鷹ヶ峰が集落として発展するに至ったのは、近世初頭に本阿弥光悦が一族をひきいて来住し、次いで日蓮宗の檀林(学僧の学校みたいなものでしょうか)が設けられてから。それから周山街道の要路にあたるところから物資の集散地となり、各種産物の問屋が軒を並べ、宿場としても栄えました。しかし、国鉄山陰線が開通し、明治37年には右京区高雄・梅ヶ畑経由の新しい周山街道ができてからは、まったく衰微したといいます。
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9 月 28 2008

金閣舎利殿2008年9月28日


08-9-28 金閣舎利殿

1397(応永4)、足利義満が西園寺家の山荘を譲り受けて造営した北山殿。金閣を中心とした庭園・建築は極楽浄土をこの世に現したといわれ、後小松天皇(一休の父)を招いたことは有名。義満は中国の明使とここで引見し、「日本国王」の称号を受け、貿易を盛んにして文化の発展に貢献したところ。有名な北山文化を生み出した。義満の死後、遺言によって禅寺に改め、義満の法号にちなんで鹿苑寺とした。はじめは多くの堂塔があったと伝えているが、応仁・永禄の兵火によって金閣を除くおもな建物を焼失した。

 

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4 月 13 2008

宇多野の桜は圧巻です

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広沢に佐野藤右衛門の植藤という、造園屋さんがあります。代々仁和寺の桜守として知られています。戦争中のことですが、佐野家の土地には、全国各地から蒐集した桜の木が植えられていました。昭和十九年、太秦の警察署から、食糧増産のためといって桜の植えてある造園の土地に、芋などの作物を作るよう命令を受けました。丹精に育てていた桜の木を切らなければなりません。十万本の木があったといいます。三万本を各所に寄付し、なかでも三百本の優良種を近くの宇多野療養所(現宇多野病院)に贈り、その時の桜が、今は立派に咲き誇っています。何分、病院なので、迷惑のかからないよう、一条通りから宇多野の桜を楽しんでください。かくれた名所ですが、くれぐれも、院内に入っての桜見物はお控えください。
参考資料「桜のいのち・庭のこころ」佐野藤右衛門著

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