【坂本龍馬遭難地・近江屋跡】
坂本龍馬・中岡慎太郎遭難地の石碑の前に、新たに説明の駒札が建ちました。昨日、駒札の除幕式が行われたと聞いています。下記の写真にある石碑は、随分以前からここにありましたが、その説明のための駒札が追加されたことになります。この場所は、以前、旅行会社がありましたが、現在はコンビニに変わりました。この場所が、龍馬が暗殺された近江屋跡といわれています。本当は、近江屋は今はファッショナブルな洋服の店舗となっている北側のお店です。前は、本屋でした。その本屋が、近江屋の跡といわれ、石碑を建てるときに、本屋の前に建立するつもりでしたが、本屋自身が、人が殺されたことを示す石碑は、縁起が悪いと石碑を建てることを拒んだため、南側のこの位置に決まったと聞いています。来年の大河ドラマの準備が、だんだんと進んでいるようです。

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7 月 01
10 月 07
8 月 08
【いけばな】について
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神霊が樹木に!
日本では古くから神が樹木に宿ると信じられています。地面に立てた松や榊などに神を招き寄せ、迎え入れた枝を依代として祀りました。正月の門松などはその名残でしょう。 -
仏像の供花から愛でるものへ!
奈良時代には、仏像に供える飾りとしての花、供花が、仏教と共に中国から伝えられた。当初、花は観賞用というよりも、宗教的な意味が強かった。やがて貴族の邸宅では、花を切って瓶に挿し、愛でるようになる。『枕草子』の記述からうかがえる。そして、平安末期から鎌倉時代にかけては、花の優劣を競う「花あわせ」も盛んに行われた。 -
座敷飾りとしての「たてはな」
室町時代、書院造の建築様式とともに、座敷飾としての「たてはな」が完成する。花を立てる専門家も登場し、将軍の邸宅などで活躍した。六角堂池坊の寺僧であった池坊専慶もそのひとり。その後も池坊からは名手が登場し、専慶から十六代後とされる専応は、今日の池坊の元となる口伝書を残し、流派のやり方を残した。 -
たてはなは「りっか」へ発展
安土桃山時代、たてはなは「りっか」へと発展し、時代の風潮に合わせた豪華絢爛たるものとなる。二代専好が、中心になる枝と左右に伸びる枝六本の計七本の枝で構成する様式を確立する。一作ごと無限の変化に富むと評された天才・二代専好のおかげで、池坊の立花は名をあげ、「花は池坊」といわれるほどとなる。 -
なげいればな
立花に対して形式を定めない自由な生け花ということで「なげいれはな」とよばれていたものが、桃山時代、茶室の花(茶花)として確立された。茶花は草木や花のありのままの自然の姿を生かそうとするものといえる。花を「立てる」のではなく「いける」という言葉が用いられた。茶道の発展とともに普及した茶花は、元禄ごろには茶道から自立して、「抛入花」の名で江戸の町人階級に、たいそうもてはやされる様になる。 -
生け花への昇華
生花は抛入花の自由性に立花の形式美をプラスした「生け花」へ昇華し、その後、生花の流派が次々と誕生し様式が確立する。それまで「立花」でいけばな界を独占してきた池坊も、「生花」を認めざるをえなくなり、文化年間(1800年代初め)にその様式を取り入れた。ただし、立花の本家本元のメンツにかけあくまで立花から派生したものとして「しょうか」の名で呼んでいる。 -
女性の稽古事
江戸時代、儒教政策の影響で諸流派は、遊興の道具としてもてはやされていた「いけばな」を、本当は人倫の道を明らかにするものだとして「花道」と称し、いけばなは婦女子の稽古事の筆頭とされるようになっていった。 -
フラワーアレンジメント
定型化を嫌う文人たちの間で生まれたのが、抛入花の流れをくむ「文人花」。これが幕末から明治にかけて外国に紹介され、欧米のフラワーアレンジメントに大きな影響を与えたという。明治維新で一時衰退したが応接間のテーブル用として、洋花を使った「盛花」が考案され、それに刺激を受ける形でいけばなの見直しが行われた。 -
池坊専応の言葉
「野山水辺おのずからなる姿をあらわす」池坊専応の言葉である。今日のいけばなは、思い通りの造形美を作り出すために、余分な枝葉は切り落とし、枝の曲がり具合がおもわしくなければ、切れ目を入れたり、火であぶったりして「ためる」ことを行っているそうだ。池坊専応の説いたいけばなの精神からはちょっと遠い人も多そうである。 -
資料「日本人の伝統文化」山本素子著より
8 月 07
- 狛犬とは守護と装飾のため神社仏閣の参道におかれた獣形の像。口を開いたものを獅子(角がない)、角があるのを狛犬というが、両者は混同して狛犬(こまいぬ)と呼ばれている。阿(向かって右)・吽(向かって左)像になっていると思われがちだがあまり関係がない。そもそも狛犬は神殿や建物内にいたもので、神社の参道などにおかれるようになったのは、江戸中期からと思われる。
- 史上では日光東照宮の参道に狛犬を奉納する許可をしたというのがみえる程度である。京都市で最も古い狛犬は安井金毘羅宮のもので、1767年の奉納。次に北野天満宮の1810年であり、今出川通に面した狛犬は京都府最大で昭和9年奉納の青銅製である。ちなみに、北野天満宮の狛犬の中には男性のシンボルが彫ってあるのもある。
- 八坂神社の狛犬は、府内で一番怖い顔をしている。
- 清水寺の山門前の狛犬は、阿と阿で、阿吽ではない。東大寺の仁王門の北側にある狛犬と同じ。
- 資料「京都狛犬巡り」小寺慶昭著より
7 月 11
【犬矢来考】
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犬矢来(いぬやらい)は、竹や丸太を縦横に組んで、庇の内側から通りにさしだしてつくられた垣です。家のすそを泥はねなどから、また、犬のおしっこから保護するのが目的だといわれています。町家の表を格子で囲った駒寄せと同じ役割から「犬駒寄せ」の別名があります。犬矢来は、今や、祇園の町並みには欠かせない風景です。
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観光タクシードライバーの目から見ますと、犬矢来は別に大きな目的があるのではといつも思います。祇園町は、盛り場です。盛り場にお酒はつきものです。お酒がはいると、自然と尿意をもようしてきます。夜、盛り場を空車タクシーで流していると、暗闇にまぎれている人影を見ることがあります。何をしているのでしょうか。想像に難くないところでしょうか。
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犬矢来のあのカーブは、非常に微妙に気になるカーブです。何かをかけるとかけた本人に帰ってきそうです。私の思いすごしでしょうか。
7 月 06
七味家本舗本店
【七味唐辛子】
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江戸時代に生まれたといわれる日本の薬味。なんでも薬にヒントを得て創作したといわれている。七種類の原料を調合することで生まれる独特の香りと、ピリリと舌を刺すトウガラシの辛味。でも、使う原料は全国どこでも同じではない。トウガラシ、白ゴマ、黒ゴマ、シソ、アオノリ、サンショウ、アサの実などのほかにも、陳皮(ミカンの成熟果皮を乾燥したもの)やショウガを入れるところもあり、地方や店によって違う。
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「七味家」では、七種の中に陳皮を使わず、サンショウを入れるのがこだわり。辛味を押さえた味は、繊細な味の精進料理などに合うまろやかさが特徴。江戸期の創業以来、配合はほとんど変わらない。また、季節によって微妙に辛さに変化をもたせ、特に夏はトウガラシが多く入るという。
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江戸後期には、うどんやそばに香りを添える薬味として広く普及した。原料のトウガラシが、日本で栽培でき、わりと手に入りやすかったことが定着した理由のようという。昔から、お寺や神社の門前と関係が深く、お祭などがあるときには、出店もよく見かける。色とりどりの原料を店先に並べ、目の前で調合する様子は、晴れやかな気分を盛上げてくれる。
6 月 30
大徳寺納豆
【納豆について】
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京都が誇る納豆といえば、禅宗系の寺院で昔から作られてきた寺納豆のことで、糸を引く水戸納豆ではありません。。塩辛納豆や唐(から)納豆ともいわれ、こうじ菌で発酵させるのが特徴です。粘り気がなく、みそやコンブのつくだ煮のような独特の風味がします。代表的なのが「大徳寺納豆」「一休寺納豆」「天竜寺納豆」などです。
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寺納豆は、もともと中国から伝わり、保存がきくため、お茶受けや酒の肴として重宝され、また、和菓子の材料としても使われてきました。金閣寺の茶店でいただく抹茶のお菓子にも、この寺納豆が入っています。菓子の餡の中にショパイ納豆が二粒、実に絶妙です。一度試してみてください。
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大徳寺納豆の製法を伝授し、普及に貢献したのが一休和尚といわれています。最近は、寺で作られることが少なくなってきましが、一休和尚が晩年を過ごした一休寺では、五百五十年以上にわたって代々の住職が納豆を作り続けています。納豆作りは毎年七月、一晩水に浸しておいた大豆を蒸して、はったい粉とこうじ菌をまぶし、納豆蔵で二日間発酵させ、その後、発酵した豆をこうじかきで丁寧にほぐし、塩水を張った桶に入れ、仕込みが完了します。桶に入れたまま一年ほど天日で乾かすと、黒っぽい納豆が出来上がります。さらにもう一年、蔵で納豆を熟成させるといいます。
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寺納豆は京都だけではなく、全国各地に存在し、静岡の大福寺ゆかりの「浜納豆」は、熟成させた納豆にショウガやサンショなどで風味付けされ、徳川家康が好んだと、今でも名物となっているそうです。
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唐納豆と糸引き納豆は、系譜が違うようで、水戸の納豆は、糸引き納豆。こちらの納豆は匂いが強いため、あまり好まれなかったようで、関西では嫌いな人が多いように思います。
6 月 27
【伏見人形】
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伏見人形を始めたのは、深草に住み大和朝廷の器を作っていた土師部(はじべ)の子孫あるいは、瓦職人など諸説あり、よくわかっていない。ただ、伏見稲荷大社は元来「稲がなる」、つまり五穀豊穣の神で、稲荷山の土を田畑にまけば穀物がよく実るという信仰が古くからある。その土で「つぼつぼ」と呼ばれるおもちゃの器、鈴、ひいては人形を作り参道で売るようになったという。
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文献では、1582年(天正10)に稲荷社に参り、つぼつぼを買ったという「言経卿記(ときつねきょうき)」の記述が古く、17世紀以降「京都名所案内」などで狐、でんぼ(菓子などを入れるこども用の器)などの土産物が紹介されている。
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伏見人形は型を使うことで量産を可能にしたといい、前後二つの型で作るという特徴がある。各地の土人形の初期に、この型が使われており、伏見人形は土人形の源流といわれている。
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伏見人形の最盛期は江戸時代の中期から後期で、庶民の生活に安定と余裕が生まれ、全国から稲荷社に参拝者が訪れ人形を購入したようである。往時は50~60軒の窯元があったようだが、明治以降は、ブリキなどの玩具に押されて衰退し、現在は、1750年創業の丹嘉と約30年前から窯元になった稲山庵、休業中の一軒のわずか三軒となった。
6 月 25
【鍾馗さん】
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家にふりかかる災難を屋根の上からにらみをきかし追い払う瓦人形の魔除けが鍾馗さんです。京都の町並みを歩いていると、玄関の上の庇に閻魔大王のような出で立ちの小振りな瓦人形をよく見かけます。探してみると以外とこれが多く、多種多様です。しかしこれは閻魔大王ではありません。京都では「お鍾馗(しょうき)さん」と呼んでいます。
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そういえば京都では人以外のものも「さん」づけで呼ぶことが多いです。「建仁寺」を「けんねんじさん」。「八坂神社」を「祇園さん」といったふうです。
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この「お鍾馗さん」、ルーツは中国にあります。「鍾馗」というのは、唐の玄宗皇帝の夢に登場した伝説の人物だそうです。夢の中の鍾馗は、楊貴妃の宝を盗もうとする鬼を追い払ったといわれています。そして、病に伏していた皇帝が、この夢から覚めると全快していたといわれています。
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京都では、この故事にならい、家にふりかかる邪気を打ち払う魔除けとされています。不動明王なみの恐い形相。これが邪気を打ち払う秘訣なのかもしれません。
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町並みの構造にも関係があると思います。京都の町並の出入り口は「平入り」という構造です。屋根が落ち込むところに入口があるわけです。雪国では考えられない構造だそうです。確かに、雪が屋根から滑り落ちたら、入口から家に入ることができません。雪国では、「妻入り」という出入り口だそうです。
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京都の町屋は、ほとんどすべて隣家と接しています。ようするに、妻側に魔除けの鬼瓦を付けることができません。何か邪気を払う鬼瓦に代わるものとして、「鍾馗さん」が登場したのではないかと、ひそかに思っています。
6 月 24
【かつお節について】
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カツオダシは平安時代から基本調味料として愛用されていた。当時の貴族の食事に現われる代表的な調味料は、塩、醤(ひしお)、酢、未醤(みしょう)、煎汁(いろり)(カツオの煮汁)など。この時代は、まだかつお節とは呼ばず、堅魚(かたうお)などといった。のちに鰹という字が当てられ、室町時代あたりから「かつお節」という言葉が登場する。
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本居宣長(1730-1801)は『古事記伝』の中で、「昔、カツオといっていたのは、生ではなく、乾燥したかつお節」だといっている。現在のような、カビを付けたかつお節は、元禄時代、土佐で考案されたという説があり、それが各地に広がったといわれている。産地は西日本を中心に、土佐、伊豆、紀州、薩摩、焼津などが有名。
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江戸時代の料理書には、カツオダシを使った料理が多くあるが、なかなか高級品だったらしく、手の届かない人々は、安い煮干しなどで代用したという。ちなみに、生で食べるようになり、初ガツオに価値を見いだすのも江戸時代で、カツオのたたきは、ショウガでなくカラシ酢で食べていた。カツオやかつお節は、勝男や武士にも通じる縁起物とされ、当時の代表的な贈答品。また、携帯しやすく、保存食として優秀な兵糧でもあったという。









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