6 月 12 2008

観光タクシードライバーの小噺 日本庭園6

日本庭園について6

【修学院離宮】

 修学院離宮は総面積約545千m2(165千坪)で、上・中・下の三つの御茶屋で構成された別荘建築。後水尾上皇みずからが設計し、下と上の御茶屋が造られた。中御茶屋は、皇女朱宮の御所として造られ、上皇崩御ののち林丘寺となっていたものを、明治時代に離宮に加えられた。修学院離宮は従来の日本庭園にはみなれないスケールの大きいものである。ドイツの大建築家ブルーノ・タウトは修学院離宮について『眼は見る』とその雄大さを高く評価した。

  • 後水尾天皇と徳川幕府 後水尾天皇(108)は後陽成天皇(107)の皇子として1596年に生まれ、1611年に即位し在位18年にして突如退位(1629)、院政をとること51年に及び、85歳の高齢で亡くなられた。後水尾天皇は家康の孫、秀忠の娘・和子をわずか6歳で正妻として押し付けられた。和子が東福門院として立后の後、幕府は天皇の外戚という立場を利用、「禁中並びに公家諸法度」を強化するなど、天皇の日常生活まで強い制限を加える政策をとった。そして、天皇在位中に「早く引退せよ」と、仙洞御所(天皇の隠居所)の造営を勝手に始め、天皇は退位を余儀なくされることになる。時に33歳。かくして上皇はその政治的失意をまぎらわせるために仙洞御所にあって詩歌、茶道などの雅遊を催され、趣味の生活に入られるようになる。
  • 精力絶倫の後水尾院 後水尾院の実子は32人。皇子15名・皇女17名で江戸時代の天皇の記録としては最高で、51年もの院政をとった歴代上皇は前例がない。その間、明正・後光明・後西霊元とわが子が天皇になるのを見守り、自らを苦しめた家康・秀忠・家光・家綱の四代の徳川将軍の死に立ち会い、85歳の長寿を全う、これも実にその年齢がわかる天皇の中で昭和天皇に次いで2番目にあたる。こうした後水尾院の人生こそが、修学院離宮の雄大さに現れている。
  • 修学院離宮の誕生 上皇は退位後10年ぐらいたって仙洞御所の外に理想の土地を求めて山荘を営みたいと強い希望がわいてきたようである。1649年頃、岩倉幡枝に山荘を設けられた。その山荘は、東方の眺望が開けて雄大な比叡山をその庭園の眺めの中に「借景」しており、離宮建造の前奏曲のようであった。後の円通寺である。1655年、皇女梅宮の草庵・円照寺に立ち寄った際、その早春のすばらしい大景観に感動し、この土地こそ長年探し求めてきた山荘の最適地であると着眼されたという。草庵・円照寺は他に移し、1656年上皇60歳の時、修学院山荘の造営に着手3年後に完成する。
  • 『眼は見る』雄大な庭園 修学院離宮においても桂離宮の場合と同じように、豪華絢爛の建築や庭園はみられない。上・中・下、三つの御茶屋を結ぶに畦道をもってして、特に上御茶屋によって代表されるその意匠は、自然風景的、田園牧歌的であってすべてが大らかで明るく、視覚的にも気楽に理解でき、人々にわかりやすい。そして、ダムを造り、川をせき止め、巨大な池を造り、堤を大規模な潅木の大刈込みによっておおい、あるいは遠くの山々や森や川を借景として取り込んだ見晴らしの雄大な庭園としてその意匠は高く評価されている。大建築家ブルーノ・タウトは修学院においては『眼は見る』と評している。大建築家の彼でなくとも、その雄大さには感動を覚えることは間違いない。
  • 桂・修学院離宮の対比 桂離宮における建築と庭園の表現はすべてが行き届き過ぎて、深い素養と能力があってはじめて理解できる。平凡なものには飲み込めないむずしさがある。一方、修学院離宮は表現が素直で自然風景的であり、田園牧歌的で人々にわかりやすく容易に受け入れられる。両者はほぼ同年代に造営された上、同じ皇族の叔父(八条宮智仁親王)と甥(後水尾天皇)という身内によって造られたにもかかわらず、かたや繊細、かたや雄大といった造形の対比が面白い。しかも、その両方ともが、日本を代表する傑作になり得たのは単なる偶然ではない。
  • 幕府と皇族 時の権力者豊臣秀吉・徳川家康ならびに幕府と皇族との関係がなんとなく見えてきました。その時代の皇族は政権に翻弄され、政治的失意からか、精一杯の抵抗なのか、雅遊の世界に身を投じなければならない生き方を余儀なくされました。以前、曼殊院を訪ねたとき、そこのお坊さんが、そこの寺をさして「格子なき牢獄」と表現していたことを思い出しました。その「格子なき牢獄」が原動力となり、奇しくも日本民族の文化を代表するような歴史的遺産をもたらしたことは皮肉なことです。
  • 建築家ブルーノ・タウト ドイツを代表する大建築家ブルーノ・タウトは昭和8(1933)日本を訪れ、桂離宮を絶賛し、その美を世界に紹介しました。桂離宮は外国人の訪問によって初めてその美が発見されたのです。彼の言葉は、桂離宮を『眼は思惟する』とその精神性を高く評価し、また、修学院離宮を『眼は見る』とその壮大さを評価しています。一方、日光東照宮を『眼はもう考えることができない』と酷評しました。今回、研修するにあたって、西洋の大建築家の至言を少しでも確かめることができればと思います。

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6 月 11 2008

観光タクシードライバーの小噺 日本庭園5

日本庭園について5

【桂離宮】

桂離宮は1615年頃から、八条宮智仁親王とその子智忠親王親子二代にわたって、約40年を費やして造られた別荘で、その別荘は簡素にして明快な日本建築と庭園の造形美術を象徴する不朽の名作といわれ、日本民族の文化的所産とまでもいわれている。桂離宮の美を世界に紹介したドイツの大建築家ブルーノ・タウトは昭和85(1933)始めて日本に上陸した翌日に桂離宮を訪ね、その美に感動して 『眼は思惟する』 と称賛したという。

  • 八条宮家の創立と秀吉、家康 桂離宮の創始者・八条宮智仁親王は、後陽成天皇(107)の弟に当たり、後陽成天皇の皇子の後水尾天皇の叔父にあたる。天正16(1588)10歳のとき、関白・豊臣秀吉の養子として迎えられたが、翌年、秀吉に実子鶴松が生まれたので、天正18(1590)新たに3,000石の八条宮を創立した。大阪夏の陣で徳川家康が豊臣家を滅ぼし、以来江戸時代になる1615年、この動乱の真ただ中に幕府から八条宮に領地として桂の地が与えられ、桂離宮は皇族と権力者秀吉、家康という関係の中で産声を上げることとなる。

  • 二代智忠親王と加賀百万石 二代智忠親王は寛永6(1629)智仁親王が薨去されたので八条宮家を継ぐこととなった。寛永19年、将軍家の勧めで外様大名、加賀・前田利常の娘、富姫と結婚。この加賀200万石の大藩との縁組によって、八条宮家は経済的に強力な後ろ盾ができ、離宮築造の用として多額の資金が贈られ、なかば公に桂離宮の改造工事が進められることになり、桂離宮は現在のような規模になる。
  • 避暑と月見のための別荘 桂離宮の書院群の建物は、主として夏の別荘であり月の名所でもあった所で、酷暑には涼風を取り入れ、強い夏の太陽の直射をさけるため軒を深くし、広い縁側を設けている。秋には観月に都合のよいように特に19度の角度を保って後ずさりの後退型に造られている。それは、月の出の方位を考慮に入れたものに外ならない。そして、東側の桂川の氾濫に備えて高い床の上に建てられるなど床下は防湿と氾濫のときの通水を考慮した簀の子ばりの建築になっている。実用性と趣味と美観が一体をなした心憎いほど整ったデザインである。
  • 西欧手法の庭園 庭園ついては、一項目で扱うことなど不可能だが、ごく簡単にふれておきます。  桂離宮の庭園は、日本庭園が古来、自然風景式な庭園であったのに対して、西欧文化の庭園の手法が数々が指摘できる。従来は自然石や、樹木や、草などを用いて空間を自然に順応して自然の美しさを出すという作庭方法だったが、桂離宮の庭園では、切石や畳石を直線的に配列するかと思えば、斜めに配置して遠近感を出したり、手水鉢や石灯籠を数多く露地の先端において見透線を構成したり、すこぶる明快なデザインは新しい造園の手法であり、西欧手法の影響が指摘できる。
  • ※遠近法(パースペクティブ)人間の目の錯覚を利用して、距離感を狂わせるトリックで先細りの空間を作ること。
  • ※見透線(ビスタ) →目の前がすっきり奥まで見通せる仕組みのことで、遠近感を強調してみせること。
  • 桂離宮の造営者は? 智仁親王とその子智忠親王、親子二代にわたって造られた桂離宮の真の造営者は誰なのか。八条宮智仁親王自身なのか。当時盛んであった茶の湯、キリスト教の西欧文化の痕跡などから、学説は分かれているが、桂離宮は小堀遠州を最高差配とした同流派の人々によって今日の姿にちかく、増・改築されたもと推測される。
  • 八条宮家のその後 八条宮は天正18(1590)、智仁親王が創立されたのち、その子二代智忠親王に実子がなく後水尾天皇の皇子を跡継ぎとする。後、京極宮となり、さらに桂宮と変わり、明治14年、第11代淑子内親王を最後として断絶する。桂離宮は、その後宮内省()の管理するところとなり、さいわい保護政策が行きとどき、おおむね原型のまま今日に及んでいる。※内親王→天皇の皇女
  • 桂宮家と二条城本丸御殿 二条城本丸は天明の大火(1788)に消失、その後ながらく再建はならなかった。幕末には将軍慶喜の住居として本丸御殿が建てられたが、破損が甚だしいため撤去。その後、宮内省()の管理にあった、断絶した桂宮家(八条宮)の京都御所・今出川御門内の桂宮邸を、明治26年二条城本丸に移築し、これを本丸御殿とした。宮家の遺構として完全な形で残されている唯一の建物で重要文化財。
  • 桂離宮と曼殊院門跡 比叡山西塔に始まる曼殊院は、智仁親王の次男、智忠親王の弟、良尚法親王の時当時御所の北にあった寺を修学院離宮に近い現在の地に移した。書院は、桂離宮の書院群と類似しているため、「小さな桂離宮」ともいわれ、桂離宮を現在の姿に完成させた兄・智忠親王の協力がかなりあったものとみられる。書院の違い棚や書院の間取りに遠近感を強調する手法などがみられる。※法親王→仏門に入った皇子

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6 月 10 2008

観光タクシードライバーの小噺 日本庭園4

日本庭園について4

  • 庭園の中島について 日本は、海に囲まれた島国であることから、池には必ず島を浮かべ、海島の風景を写すことが理想とされてきた。また、中国の庭園の影響から、仙人が住むといわれる蓬莱山を池に造ることによって、庭園に神秘性をもたせることも盛んに行われた。庭園のテキスト『作庭記』には、中島は盛土によって造ってはならないと述べられ、あらかじめその部分を残して池を掘らないと、水に侵食されて崩れてしまうことが説かれている。

 【作庭記について】

 平安時代後期、世界最古の庭造りのテキストで作者は不詳。

  • 《遣水(やりみず)》 野辺の小川や谷山の渓流の姿を造ることが試みられ、それらを遣水といい、高い位の貴族のための寝殿造系庭園の必要条件となる。野原の小川を表現する際は、川の傾斜をゆるくし、石をあまり用いず砂利や砂を敷き、また谷山の渓流を模す場合は、傾斜を強めにして両側に石組みを施す。
  • 《滝》 高低差に富む日本の地形は、川とともに滝が独特の風景美を醸し出している。西洋の庭園の水の工夫が噴水に代表されるとすれば、日本の自然風景式庭園における水の扱い方は、この滝に象徴される。
  • 《橋・反橋》 微妙に曲面をつけた橋で、主に寝殿造系庭園に用いられ、橋に強度をもたせるためにアーチの形状としたものが、後に形式化したもの。
  • 《橋・平橋》橋を複数かける際、一つを反橋にした場合、もう一つは平面的な平橋として変化をつけることがあり、主に中島へ渡る際に用いられた。
  • 《橋・石橋》日本庭園では、古くから遣水の上流に石でできた橋を用いるならわしがあり、桃山期以前は、自然石をそのまま用いましたが、それ以降は人工的に加工した切石橋が造られ、京都白川で産出される石を用いたものが有名。廊橋(呉橋)岸と中島の間、屋根や腰掛けのついた橋で、西芳寺邀月橋など。

 【庭園の分類】

 庭園の分類はいろいろな視点から考えられますが、今回は以下の分類にしたがいます。  】内は京都の特別名勝庭園

  • 自然風景式 浄土式庭園  【法金剛院】・【浄瑠璃寺】・平等院
  • 寝殿造系庭園 【金閣寺】・神泉苑・大覚寺・仁和寺宸殿
  • 書院造系庭園 【二条城二ノ丸】・【本願寺書院】・【銀閣寺】・【三宝院】・桂離宮・修学院離宮・曼殊院・詩仙堂
  • 枯山水 前期式枯山水 【天龍寺】・【西芳寺】後期式枯山水 【金地院】・【大徳寺方丈】・【大仙院】・【竜安寺】・南禅寺方丈・妙心寺・退蔵院・円通寺
  • 参考文献「日本庭園のみかた」宮元健次著

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6 月 09 2008

観光タクシードライバーの小噺 日本庭園3

日本庭園について3

  • 大名庭園 江戸時代、武術中心の武家社会に変革が訪れ、特に外様大名は、幕府への謀叛を企てる下心がないことを示すため、藩をあげて遊興に熱中して見せ、幕府への宣伝として、工芸や庭園に力を入れた。その一環として、大名たちによって数多くの庭園が造られたといわれている。金沢の兼六園などは当時の風潮を物語っているといっても過言ではない。
  • 「癒し」と「他界」 都市生活に疲れた者にとって、香る花や目に鮮やかな新緑は心を和ませる。このような「癒し」が庭園の魅力の一つになっている。その反面、「癒し」とは対極的な性格が隠されている。「他界」すなわち、死後の風景が見えてくる。浄土式庭園は、死後の世界のほかならない。寝殿造・書院造系庭園にみられる中島は、元来仙人や神が住むといわれる神仙島を再現したもの。さらに、枯山水式庭園にみられる須弥山と呼ばれる石は、仏教においては、あの世に立つといわれる山の再現であり、その他枯山水式庭園の成り立ち自体が、もともと古墳の石が地面に露出したものを利用したものといわれている。庭園は生きている人間の「癒し」であり、死んでからの「他界」でもある。
  • 作庭家・重森三玲氏「苔寺について」 苔が美しいことはいうまでもない。苔ばかり賞賛しているのは、カビの生えた餅のカビだけなめて、皮も餡も賞味しないのに似ている。この庭の本当の美しさは、池の地割(形と広さ)で、州浜的な曲線が特に美しい。中島は夢窓疎石が再興時の白砂だけの中島でなければならない。だから中島に生えている雑木林は、一切切り払って白砂の島とすべきである。そうすれば全庭の見晴らしもよくなり、一新する。上部の枯山水の石組は天下一の美的構成をもつ石組である。この枯山水に対して、近世の飛石が打たれている。これも取り去らなければ、鎌倉初期にできた寺の古調が泣く。文化財は、正しい理解によって、現代人の血とし肉とすることが第一義である。それなくして保存の意味はない。
  • 参考文献「日本庭園のみかた」宮元健次著

 

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6 月 08 2008

観光タクシードライバーの小噺 日本庭園2

日本庭園について2

【枯山水庭園】

 枯山水とは、自然風景を石組みを主として表現した庭園の形式。日本は古来より池庭に島を浮かべる山水の写しを庭園の基本としてきたが、水そのものを素材として用いないことによって、ことさらに自然から離れ、その表現を象徴的なものにした庭園。水のない内陸の土地では、池庭を造ることが極めて困難であり、それでも水の表現を希望したために枯山水の形式が生み出されたとみられる。枯山水庭園は、その敷地が山辺であるか、平庭であるかによって桃山時代以前の前期式と、それ以後の後期式の二種類に大別できる。

  • 枯山水は古墳から!(前期式枯山水)山の斜面に造られる石組を配した庭園を前期式枯山水という。※『作庭記』には、古墳の石室近くの作庭に端を発し、それらの巨石が容易に取り除くことができなかったために、逆にそれらを庭に生かしたことが記されている。枯山水庭園は古墳の石が誕生のきっかけになったと考えられている。そして鎌倉時代、新興仏教の禅宗が伝来し、その特有の自然観から石立僧と呼ばれる僧侶が石組みを造りはじめる。中でも有名なのは、夢窓疎石であり、彼の造った西芳寺石庭は、前期式枯山水の代表作といわれている。《※『作庭記』→平安時代後期、世界最古の庭造りのテキストで作者は不詳》前期式枯山水⇒天龍寺・西芳寺・法金剛院など
  • 禅宗寺院と枯山水(後期式枯山水)平坦な地面に石を立てた庭のことを後期式枯山水という。室町時代・応仁の乱のために京都が焼け野原となり、その経済的無力が手伝って、従来の池庭とは全く異なる枯山水の形式が定着したと考えられる。しかし、単に水を引き入れ、池を掘り、木を植えるという造園作業の難しさだけではなく、枯山水は池や川の流れや滝などの風景要素が概念的に表現でき、禅思想の表現の一つとして、禅院の書院や方丈に接する狭小な庭にもっとも適した庭の様式としてもてはやされたと思われる。枯山水には自然風景式庭園にみられるような遊びの要素は全くない。後期式枯山水⇒南禅寺方丈・金地院・大徳寺方丈・大仙院 ・ 竜安寺・妙心寺・退蔵院・円通寺など
  • 石のない枯山水はない!石のない枯山水はない。中国の奇岩珍石の愛玩鑑賞や山水画が、日本庭園に絶大な影響を与えたことは推測にかたくない。その中国の影響とは別に、禅思想が輸入されるはるか以前から、日本人は岩石の中に何か精神的なもの、神聖視する気持ちを感じている。岩にしめ繩をはったり、神社の御身体が磐座であったりする。そのような日本人の一般の傾向が基礎になって、禅寺に石庭を作り出すことになったかもしれない。
  • 庭の白砂は何のため?元来、禅宗寺院の方丈南庭は、もともと一木一草のないのが本来の姿であった。砂は庭に雑草が生えたり土が雨のためぬかるんだりするのを防ぐためのものであり、また、白砂が反射する光りは屋内を明るくするのにも役立った。また、貴人の訪問に際してはその通り道に砂をまいた。庭は仏教儀式をとり行うための広場であった。しかし、鎌倉から室町にかけて建築が発達し、儀式や行事が屋内で行われるようになると、庭は使われる空間から見られる空間になったという。白砂だけの庭に石をおき、植物を植えた。
  • 参考文献「日本庭園のみかた」宮元健次著

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6 月 07 2008

観光タクシードライバーの小噺 日本庭園1

日本庭園について1

【自然風景式庭園】

 自然風景式庭園とは、自然の姿をありのままに模倣するか、あるいはその特徴を損なうことなく濃縮して作り出した庭園のことをいう。日本の夏は蒸し暑いため、住居や庭に涼しさを得るためにさまざまな工夫がこらされた。庭には池をつくり、島を浮かべ、名勝の景観を描写するといったことも試みられた。自然風景式庭園を分類すると、浄土式庭園・寝殿造系庭園・書院造系庭園の三つに分けられる。

  • 浄土式庭園 浄土式庭園とは、仏教の伝来とともに浄土思想が芽生え、仏がいるといわれる清らかな死後の世界、極楽浄土を再現しようとしたもので、阿弥陀堂と呼ばれる仏堂があり、その前が蓮池を中心とした庭園の形式をいう。浄土式庭園⇒平等院・法金剛院・浄瑠璃寺など
  • 寝殿造系庭園 寝殿造は平安貴族たちの邸宅の様式で、障子や御簾を間仕切りにしていたため、ほとんど壁がなかった。風通しのよい開放的な構造は、「家の作りようは、夏をむね(中心)とすべし」(徒然草)とされた京の貴族の代表的な邸宅である。寝殿造系庭園とは、その寝殿の前面に行事や宴遊のために造られた池をもつ庭園のことで、池には遣水(庭に導かれる細い水の流れ)をひき、池の中や水際には※釣殿を建て、納涼の場としたような庭園。寝殿造系庭園⇒神泉苑・大覚寺・金閣寺・仁和寺寝殿など※釣殿→納涼のための吹きさらしの建物で、魚を釣るためではない》
  • 書院造系庭園 室町時代、公家にかわって台頭した武士が、華やかな貴族への生活の憧れから、寝殿造りを住居に取り入れはじめた。さらに、初期将軍たちが譲位して出家して僧侶になるのが多かったため、しだいに寺院の住坊にあった床・棚・書院といった意匠が取り入れられ、書院造の形式が誕生する。書院造系庭園は、その前庭として発達したもので、その後禅宗や浄土真宗の寺院や近世の貴族の庭として幅広く用いられた形式。書院造系庭園⇒桂離宮・銀閣寺・修学院離宮・二条城二ノ丸・醍醐寺三宝院・本願寺書院・曼殊院・詩仙堂など
  • 参考文献「日本庭園のみかた」宮元健次著

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